アニメ『日常』に於けるロボの服装の変化に対して我々の抱く劣情とそれに伴う日本アニメポル産化現象に関する考察


2012年1月の今クール、アニメ『日常』の再放送がNHK教育テレビ(Eテレ)でやっている。


本放送の26話を編集で12話に縮めたNHKオリジナル版らしいのだが、放送時間と都合が付かない為、残念ながら私はまだ一度も視聴が叶っていない。


そこで、じゃあネットでの声は一体どうなのかと2ちゃんねるのスレッドを覗いてみると、どうやら本放送の時よりもじょーじょーの評価を貰っているようなのだ。



「CMがないからテンポが良い」「しっかり面白い話を厳選してる」「エンドカードの画とNHKの文字が絶妙にマッチしていて笑ってしまう」etc...



どれもNHK版ならではの称賛と言えるだろう。確かにエンドカードに関しては、私も画像を見て思わずクスリと来てしまった。


アニメ『日常』を近年稀に見る良作アニメと評価している私としては嬉しいことこの上なかった。


しかし、しばらく2ちゃんねるのスレッドを眺めていると、私は以下のような意見を挙げている人が数多くいることに気づき、疑問を覚えた。




「やっぱりなの(=ロボ)を最初から学校へ行かせたのは正解だったな」




この記事はアニメ『日常』の本放送を見ていることを前提で話を進めるつもりだったが、やはり見ていない人のためにここで少し補足をしておこうと思う。


アニメ『日常』とはショートコントの寄せ集め――所謂4コマ原作型アニメの体で物語が展開されていくのだが、その内容は大きく二つのパートに分類される。


一つは主人公であるゆっこ(以下アホ)たちが織り成すドタバタ“高校パート”であり、もう一つがロボの所属するほんわか“東雲家パート”である。


本放送時のアニメ『日常』は全26話2クールアニメだったが、1クール目、つまり13話まではこの二つのパートは完全に隔離されたモノとして描かれていた。


アホたちが登場する“高校パート”ではロボたち東雲家のメンバーは登場しなかったし、ロボの登場する“東雲家パート”ではアホたち高校組のメンバーは登場しなかったのだ。


しかし26話もその形で物語を続けていては流石に視聴者に飽きられてしまう。おそらく制作陣営はそう考えたのであろう。


そこで2クール目(14話目)になって、ロボに制服を着せてアホたちのいる高校へ通わせ始めたのだ。そのテコ入れ(?)により二つのパートはクロスオーバーすることとなり、


13話を終えて視聴者の間に漂い始めたマンネリ感を払拭する一助となったのである。


補足終わり。



つまり上で出ていた意見とは「2クール目からではなく、1クール目からロボを学校へ行かせるべきだった(そのほうが面白かった)」ということを言っているのである。


しかし、果たして本当にそうだろうか。私は疑問に思う。


2ちゃんねるのスレッドをいくつか見てみると、アニメ『日常』に於いて最も人気のあるキャラクターはロボであるということは一目瞭然だ(と言いつつもソースは無し)。


確かにボクもそうだ。ロボが一番好きだ。


故にその人気キャラを主人公たちと早めに絡ませるべきだった、という意見も分からなくはない。


しかし彼らは気づいていないのだ。なぜロボがアニメ『日常』に於いて一番人気のキャラクターであるのか。なぜ我々がロボに魅力を感じているのかを。



「アニメとは違いロボが最初から高校生で、新妻の放つあの迸るようなエロ気が全く感じられなかったのが残念だった。てか残念要素の九割がそれだった」



嘗て私は高円寺の漫画喫茶で漫画『日常』を読んだとき、このような意見を述べた。


そう、漫画『日常』では上の2ちゃんねらーたちの意見どおり、ロボが最初から学校へ通っていたのである。


しかしそれでは“残念”なのだ。


これは補足では書かなかったが、“東雲家”に於けるロボの役割とはお手伝いロボ、普段はエプロンをつっかけて洗濯やらお料理やらをこなすお母さん的、艶かしく言えば人妻的な立場に位置しているのである。



もうお分かりだろう。我々がロボに対して抱いていた魅力とは“ギャップエロ”だったのだ。


本放送時、1クール目の“東雲家パート”で我々はエプロンを着て炊事洗濯掃除に育児をこなすロボの姿を何度も見てきた。


その光景によって我々の心にはロボに対する母性のような感情が蓄積されることとなった。


そして2クール目、ロボがエプロンを捨て高校の制服に袖を通した、つまり“お母さん”から“女子高生”になった瞬間だ。今まで我々の心を支配していたロボに対する母性という感情が一瞬でエロへと昇華、姿を変えたのである。


これは、この文章を読んでいる淑女諸氏にはイマイチ理解に苦しむ理論かもしれないが、きっと世の健全なる紳士諸君なら大いに頷いてくれることだと思う。




“ギャップエロ”は偉大なのだ。




ではそのことを踏まえて先ほどの



「やっぱりなの(=ロボ)を最初から学校へ行かせたのは正解だったな」



という意見に結論を出しておこう。


これは、“やっぱり”という言葉からも分かるとおり、本放送を視聴していた者、言い換えれば、“ロボに対する母性の蓄積”を既に終えた者の言葉なのだ。


その者が、再放送の一話で制服を着たロボを見たのだから、上のような勘違いをするのも無理はないのである。


無意識の内に脳が母性→エロの変換をしているのに気づいていないのだから。


おそらく、この書き込みをした者は、なぜ自分がロボに対して魅力を感じているかを分かっていないのだろう。ただ可愛いからとか思ってるのかもしれない。なんとも嘆かわしいことだ。昨今のキャラクター大量消費主義が生んだ弊害である。



ということで、私はここまでタイトル通り(笑)、ロボの服装の変化に対して我々の抱く“ギャップエロ”について語ってきたわけだが、本題はここからと言っても良い。


実は私を含めた男性諸君は、アニメキャラの服装などという妄想的なものではなく、普段もっとストレートな“ギャップエロ”に接しているはずなのである。


それはそう“AV”である。


日本を代表するポルノ産業、アダルトビデオである。


ここではスクール水着モノのAVを例に出して説明しよう。


どんなに初心な嬢ちゃん坊ちゃんでも理解しているだろうが、スク水モノのAVに、普段スクール水着を着用している年頃の女の子は出演していない。


スク水モノのAVとは謂わば、スクールを卒業したAV女優がスク水の“コスプレ”をしているようなものなのだ。


スクール水着とは少女の象徴であり、その象徴を大人の女性が身にまとい性行為に興ずる背徳感、


スク水AVを視聴する世の男性たちはその“ギャップエロ”に興奮しているのである(勿論単純に性行為そのものに催している人もいるだろうが、この場合は性癖としての興奮と捉えて貰いたい)。


これで繋がっただろう。先ほどまで上で長々と話してきたアニメ『日常』に登場するロボの魅力とは、日本最強のポルノ産業である“AV”から受け継いだ物だったのだ。



アニメ『日常』の制作会社である京都アニメーションがこの背景を意図して、クール間の服装変更を行ったかどうかは定かではない。


しかし昨今の日本アニメの、“サービス”を超えた露骨なお色気描写を見ていると、


“ポル産化”という言葉を鼻で笑うことも出来ないし、私のこの考察が、ただの深読みであるとも決して思えないのである。