書籍紹介



空ろの箱と零のマリア (電撃文庫)

空ろの箱と零のマリア (電撃文庫)





友人からの借り物その一。。。


「お前が今書いてる方向で参考になるだろう作品をラノベ得意な友達から聞き出して、ブックオフで買ったから読んどけ」


そう言って手渡された。。。


なんでティーンズなのかと聞いたら、


ラノベならすぐ読めるからだよ、すぐ読んでアイディアだけ吸収しろ、そして自分の読みたい積み本を読め」


と返ってきた。。。




ということで感謝してすぐ読んだ、ウソ、感謝しないですぐ読んだ、ウソ、感謝して10日間くらいで読んだ。。。




にしても、なぜここまでティーンズ学園モノの“お約束”を頑なに守ろうとするんだろうね。。。


ああ、ここで言うお約束ってのは「理由無きハーレム」と「日常を求める」ってことなんだけど、


これそーゆー話じゃないじゃないか。。。そんなんだから痴情のもつれが原因みたいな浅い精神論になってしまうんだよ。。。


あと、この程度の叙述トリックは正直もう余裕で見破られると自慢してみる。。。


何せ自分は一番下の『蛍』を読んでワンランク上のステージに上がったのだから。。。


ループ演出は吸収済み、その他、イラストがヤバイ。。。


このレーターの書く人物は皆、バーンアウト症候群に陥った薬物中毒者のような顔をしてして吐き気がする。。。


当然、萌えの要素も多分に含まれているのだろうけど、自分にとっては口絵のカラーページだけで本当に良かったと思う。。。








超人計画 (角川文庫)

超人計画 (角川文庫)





結婚もして、小説も売れて、顔も微妙に市川海老蔵似のイケメンである(本書写真より)コイツがルサンチマンを語るなど片腹痛いわ、


とひきこもりになったことのない自分が文句を付ける方がよっぽど片腹痛いですか、そうですか。。。


でもこれルサンチマン云々よりまず、


『エア』とやってることほとんど同じじゃんと思っている自分は『エア』をしっかり読めていませんか、そうですか。。。


いや、刊行順的には『エア』“が”か。。。


つってもなー、断筆していた七年間とは一体なんだったのか、と考えてしまうよなー、これじゃあ。。。


『エア』の文庫版あとがきで何か言い訳してくれる事を期待しよう。。。








ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)





良い。。。非常に良い。。。何がしたいのかも良く分かるし、何が言いたいのかも良く分かる。。。


シンプル、ゆえにベスト。。。


そして何より、2001年12月初出という事実が、自分の中のこの作品に対する評価を、著しく優秀なものと位置づけている。。。


この作品の主人公は平凡な男子高校生であり、かつ、謎のチェーンソー男と戦う美少女、雪崎理絵のアッシー君も務める、


いわゆる非日常の“傍観者”的立場の人間である。。。


今でこそ、この“傍観者”の主人公と“当事者”のヒロインという組み合わせは、ティーンズ文庫に於いて、


珍しくもないどころか、9割方それなんじゃないと言いたくなるほど食傷気味ブームなわけだけど、


そもそも、その火付け役になった作品というのは谷川流の「涼宮ハルヒシリーズ」で、この初出が2003年2月である。。。


自分も高校時代に読んだから分かるけれど、当時、この作品を読んだ多くの若者が、主人公キョンの置かれた立場に憧れ、


自らの青春の味気なさに軽い虚しさを覚えたのではないかと思う。。。


そう、当時の若者は皆、キョンのような非日常の“当事者”に付き添う、非日常の“傍観者”になりたかったのだ。。。


しかしどうだろう。。。


この滝本竜彦という作者は「ハルヒ」よりも二年弱早い段階で、非日常の“傍観者”に甘んじる主人公を描いている。。。


いや、甘んじるというよりは、自分から求めると言った方が正しいだろう。。。


そして、その点こそが、「ハルヒ」の主人公キョンと、この「ネガハピ」の主人公との違いなのである。。。


いつだか述べたボクの持論「日常にいるからこそ非日常を求める」


ハルヒ」のキョンが『涼宮ハルヒの消失』までかけてようやく受け入れたこの真理を


「ネガハピ」の主人公は、開始わずか35Pで認め、以下のように語っているのだ。。。




『だけどあの少女は、戦っていた。


どう考えても人間ではない、悪者っぽい怪人と戦っていた。チェーンソー男は、本当の悪者に見えた。そいつと戦っているあの子が、ちょっと羨ましかった。


だから、これは、チャンスなのだ。


オレもあの女の子の仲間に入れてもらいたい。一緒に戦わせて欲しい。


〜〜〜


だけども、それでも、死んでしまったって、いいのだ。


悪と戦ってかっこよく死ねるなら、オレの人生は、それでオールオッケーなのだ。』




なんとまあ潔いことだろう。。。


“当事者”に対して『やれやれ』などと愚痴を叩くこともない*1、読んでいてとても心地いい、ボク達世代の若者が共感できる優秀な“傍観者”像であると思う。


そしてもう一度言うけど、この作品は2001年2月初出なのだ。。。


2003年の「ハルヒ」を筆頭に、今現在まで馬鹿の一つ覚えみたいに量産されている好まれている、“見る”主人公と“する”ヒロインの構図、


その元祖がこの作品なのかは分からないけれど、


当時、裏表紙の作品紹介で滝本竜彦のことを、近代文学でも現代文学でもなく、次世代文学の旗手と評した角川編集部は、


とても的を射ていたと言えるであろう。。。





以下追記という形で。。。



さて、ボク達世代の若者が共感できる主人公像とは“傍観者”である、というのは上で述べたとおりだけど、


では、今後の世代の若者の間に流行る、つまりは共感を持たれる主人公像というのはどういうものなのかを、少し考えてみたい。。。


正直な話、同じ若者という括りの中にあっても、


今現在のボク達(およそ20〜24歳)の中高生時代と今現在の中高生たち(およそ14歳〜19歳)とでは、


確実に世代の差が存在していると言わざるをえない。。。


その理由として挙げられるのが、インターネットの普及、などという時代遅れなもんじゃなく、さらにその先、


『インターネットの普及による自己顕示の場の増加』であると考えられる。。。


今の中高生(無論、中高生だけではないけれど)は様々な方法を使ってインターネット上で自己顕示を行っている。。。


SNSにブログ、ツイッター、さらに顕示欲の強い人は動画サイトに自分の歌声や踊りなんかもアップしたりしている。。。


まあ、ブログは抜くとしても、それらSNSやツイッター、動画サイトへの動画のアップなどは、


ボク達世代が中高生のときには、周りであまり見られなかったものであると言ってよいだろう(ボク達の周りだけかもしれないが)。。。


特に、動画サイトに関しては、中高生時代のボク達は上の世代の人たちが作った動画を“見る”立場だったと思う。。。


それがどうだ、今は多くの中高生、そしてたまに小学生さえも、


ブログを書いたり、ツイッターをやったり、動画サイトに顔を晒したりして、“する”立場になろうとしている。。。


今回の震災の観点から見てもそうだ。。。被害を被っている人たちに対して、若い世代が立ち上がり、事を起こそうとする。。。


たとえその中身が空回っていたとしても、みな“当事者”になろうと頑張るのである。。。


そう、だから今後流行るであろう主人公像は“当事者”なのである。。。“傍観者”じゃなくて。。。


“当事者”の主人公と“傍観者”のヒロイン、“する”主人公と“見る”ヒロインの組み合わせなのだ、


って書いたところで、いつだかどっかの本で書かれてた、


ゼロ年代のブームが「セカイ系」から「サヴァイブ系」に移っており現在まで続いているという話を思い出した。。。

なるほど、ネットの普及→自己顕示の場の増加→“当事者”意識→サヴァイブ系の主人公に共感、とこう繫がってくるわけか。。。


自分で言うのも憚れるけど、思ったより上手く繫がったもんだ。。。



じゃあじゃあ、なんか楽しくなってきたからさらに誇大な妄想を披露すると、


実は昨今の大ワンピースブームも、若者のこの“当事者”意識が引き起こしたものなんじゃないだろうか。。。


ワンピースの主人公ルフィは、当事者を地で行くキャラクターである。。。。


仲間からは、騒ぎのあるところにアイツはいると言われ、


嵐の中にアリが一匹飛び込むのも同じことと忠告された戦争編では、


海軍総戦力の中、兄エースを見事救出した←マジ良いシーンなんすよ、マジ!良いシーンなんすよ!


そう、ワンピースという漫画に於いて、ルフィはどんなときでも物語の中心に“当事者”として存在するキャラクターなのだ、


ってまたそこまで書いて、それはもう単純に主人公だから当たり前な気もするとか考えたけど、


お偉い漫画評論家さんでも理由が分からない今の大ワンピース人気を


自分の解釈で自己完結できたのだから、それはそれで無駄ではないと信じたい。。。









螢 (幻冬舎文庫)

螢 (幻冬舎文庫)





友人からの借り物その二。。。


「お前にもそろそろこの作品の凄さが分かるころだろう」


と言って手渡された。。。


で、実際、読んで、分かった、凄さが。。。。


軽くネタバレが入るけれど、


この作品の叙述トリックは自分が今まで読んだ作品のどの叙述トリックよりも目新しく、


ワンランク上のステージレヴェルに位置するモノだった。。。



自分も語り手の違和感には早々に気がついた、けど友人いわく、それは大体の人が気づくものらしい。。。


問題はそのあと、叙述はそーゆー騙し方もあるのか!と感心を通り越し震撼させた(強引)仕掛けトリック、


読み始めたころ「ボクっ子キター!」とかテンションガチ上がりしてたそのときの自分を殴りたいと思わせた、逆どんでん返し。。。


いや、ほんと、一人を除く作中の人物達にしてみればコイツなに言ってんだ状態だからなー、いやはや恥ずかしい。。。


でもこんなん見抜けないよー普通、“盗聴器”とか。。。



と、あまり語り過ぎるのもアレなんで、


この作品を自分に貸してくれた、つまりは読む機会をくれた友人に感謝するほど秀逸な出来であったと言っておこうと思う。。。

*1:決してキョンに対して共感できないと言うわけではない、ただ後者の方がより共感できるという話